「お前の意見なんて聞いてねえ」和食店で心が折れて逃げた1年間

夜の高級和食店の檜カウンター 未分類

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一般企業勤務の妻が、地方公務員の夫(コテツ・37歳)の体験談を、本人の言葉のまま書き起こして公開しています。

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月300時間労働。週6日。手取り18万円。

23歳、坊主頭。冬の湘南の海を、俺はただ一人、ぼーっと眺めていた。頭にあったのは、「もう、ふつうに生きたい」。それだけだった。

これは、東京の高級和食店で心が折れて、1年経たずに逃げ出した話だ。人生で一番ダサくて、一番大事な1年間の記録。

当時の俺は、あの1年を「人生最大の無駄打ち」だと思っていた。でも15年経った今、俺はあの和食店の1年があったから、今の自分が立っていられると本気で思える。「無駄打ちの点」が線になる瞬間は、たしかにある。

この記事は、今しんどくて逃げ出したいと思っている人と、過去の挫折を誰にも言えず抱えたままの人に届けばいいなと思って書いた。同じ場所に立っていた俺の話として、読んでもらえたら嬉しい。

震災翌日、東京で「修業」が始まった

大学はストレートで卒業した。就活はほとんどせず、4年の後半に「飲食の道で生きていこう」と決めた。店を選んだ理由は、なんとなくだ。親方がブログを毎日書いていて、市場の仕入れや仕込みの様子を発信していた。それが格好良く見えた。それだけだった。

「修業は厳しいほど自分を高みに連れて行ってくれる」と、当時の俺は本気で信じていた。「ワークライフバランス」なんて言葉、俺の中では「クソくらえ」だった。このときの俺は、自分の心が壊れるなんて想像もしていなかった。

入店の挨拶日と、店の近くの安アパートを決めた日が、ちょうど、あの大きな地震の翌日だった。前日に日本中があんなことになっていたのに、俺の頭の中は「もうすぐ修業が始まる」でいっぱいだった。

住んだのは、都内の安い1K。ロフト付きで、ユニットバスで、台所はIHコンロが1つだけ。大学時代に住んでいた部屋の方が、ずっと広くて綺麗だった。でも、その部屋にいる時間はほとんどなかった。寝るために帰るだけの場所だった。なんとなくそれでよかった。俺は「修業」をしに東京に来たんだ、と自分に言い聞かせていた。

客単価2万円の店で、俺は月300時間働いた

店は都内の高級店だった。客単価はおまかせコースのみで12,000〜20,000円。飲み物代は別。2人で来店すれば軽く40,000円を超えた。来るのは企業の社長、幹部クラス、各界の著名な方、業界の偉い人。毎回、領収書を切って帰っていく世界の人たちだ。普段、自分が生きていて出会わない世界の人たちが、目の前にふつうに座っていた。

黒い器に盛られた和食の盛り合わせ

店の従業員は5〜6人。親方と2番手の先輩以外は、全員坊主頭。俺も当然丸坊主にしていた。仕込み中の服装は、ユニクロのスウェットに防水エプロンと長靴。スウェットは、入店の前日に親方がユニクロに連れて行って買ってくれたものだ。開店前にはちゃんと正装に着替えるが、仕込みの間はずっとこの格好だった。

1日のスケジュールはこうだった。

  • 11時半 出勤
  • 12時〜16時半 仕込み
  • 16時半 まかない(時間厳守)
  • 17時〜 営業準備
  • 18時〜24時 営業
  • 24時以降 片付け・夜のまかない
  • 3〜4時 帰宅

これを週6日。年間300日以上。最初の3か月は、包丁を持たせてもらえなかった。テーブル拭き、魚の骨抜き、洗い場、トイレ掃除、おしぼり整理。市場で仕入れない野菜やトイレットペーパー、洗剤みたいな日用品は、俺が歩いて近所のスーパーやドラッグストアに買いに行っていた。ひたすら下働きだ。

1日のうち、座れるのは3回だけ。16時半と営業終わりの2回のまかない、それと営業後の一服が5分。合わせて約15分。これが、仕事中に座っていられる唯一の時間だった。営業が終わる頃には足の裏がじんじんしていたし、水仕事で手はあかぎれだらけ。包丁で指を切ることもよくあって、寝る前は必ず軟膏を塗って絆創膏を巻いていた。それでも俺は「修業ってそういうもんだ」と思っていた。なんとなく、それを疑う発想がなかった。

給料は、手取りで月18万円。採用のときから、そういう契約だった。今思えば、社会保険なんてものは整備されていなくて、健康保険も会社じゃなく、自分で国民健康保険に入っていた。ボーナスもない。店からの保障も、何もなかった。強いて言えば、誕生日に親方と先輩から金一封で合計2万円、年末に親方からお年玉で1万円。それくらいだ。俺が人生で初めて「ボーナス」というものをもらったのは、ずっとあと、公務員になってからだった。

手取り18万と聞くと、高く感じるかもしれない。でも、そこから国民健康保険料を払い、家賃を払い、光熱費を払い、大学の奨学金を返し、年金を納める。手元に残るのは、月10万円もなかった。社会保障なんて、何もない。当時の俺は知識がなくて、それが将来にとってどれだけヤバい状態なのか、まるでわかっていなかった。

仕事が終わって、店から自分のアパートまで歩いて帰る午前3時、4時。坊主頭、ユニクロのよれたパーカーとカーゴパンツで、深夜の道を一人歩く。途中、深夜でもやっている居酒屋やバーの前を通る。週末になると、店の窓越しにはネクタイを緩めたサラリーマンやカップルが、まだ楽しそうに酒を飲んでいる姿が目に入った。仕事の愚痴か、恋愛の話か、下ネタか知らないけど、笑い声が漏れてくる。同じ「夜」を過ごしているのに、その人たちとはまったく別の世界の住人みたいに見えた。

「俺は何のために、ここにいるんだろう」――そんな気持ちが寝る前にふっと浮かぶ夜が、少しずつ増えていった。

酢飯は、砂糖と塩の塊だった

店に入ってすぐ、衝撃を受けたことがある。酢飯の正体だ。俺は和食店に入る前まで、酢飯っていうのは「お酢で味付けされた健康的なごはん」だと思っていた。日本食って、添加物が少なくて、シンプルで、伝統的なもの。そういうイメージがあった。

でも実際は違った。酢飯には、お酢に溶ける限界の量まで砂糖と塩がたっぷり入っている。要するに、砂糖と塩の塊だ。「健康的な日本食」というイメージは、ここで消えた。そして冷めた酢飯は、固くて、苦くて、まずい。人肌の温度のときだけ、あれは美味しく感じる食べ物なんだ、と気付いた。

まかないのご飯は、前日余った酢飯に、その日炊いたばかりの白米を混ぜたものだった。親方や先輩、俺たち全員の分を用意しようとすると、残った酢飯だけじゃ足りない。だから足りない分の白米を炊いて補う。炊きたての白米はうまい。でも、冷めた酢飯はまじでまずい。固くて、苦くて、重い。米の一粒一粒が酢と大量の塩と砂糖でコーティングされているんだから、当然だ。

木の器に盛られた炊きたての白米

白米と酢飯を混ぜたごはんの横には、まかない担当の先輩が作った肉野菜炒めが添えられる。近くのスーパーで買ってきた一番安い豚肉の小間切れとキャベツを、砂糖醤油みりんで炒めただけのシンプルなものだった。これを毎日、担当の先輩が多少味付けを工夫しながら作ってくれた。

16時半になると、みんなで同じテーブルに着く。時間厳守で、全員が座るまで親方が待つから、もたもたしているとよく怒られた。これも素早く料理を提供する修業のひとつだったんだと思う。手を合わせ、親方の「いただきます」の合図とともに箸を持ち、2〜3分でかき込む。会話はない。最初は「ゆっくり食って親方や先輩と雑談する時間」なのかと思っていた。たわいない会話くらいできるかもしれない、と思っていた。でも、そんなものはなかった。

先輩の目線で急かされる。みんな下を向いて、無言でかき込む。食事ではなく、それはもう腹を満たすだけの餌の時間だった。

「お前の意見なんて聞いてねえんだよ」

あの店は、完全な主従関係で回っていた。最初の1週間くらいは、親方や先輩たちも俺の意見に応答してくれた。「ここはこういう理由で、こうするんだよ」みたいな会話があった。でも、1〜2ヶ月経つと、俺の発言権はゼロになっていた。「はい」と「すいません」以外、許されなかった。

薄暗い厨房の洗い場で下働きをする坊主頭の下っ端の後ろ姿

一度、空気を読まずに何か意見を言った日があった。たぶん、仕込みのやり方について「こうした方が早くないですか」みたいな、それぐらいのささいな言葉だった気がする。親方に、こう返された。

「お前の意見なんて聞いてねえんだよ」

その日から、俺はだんだん発言をしなくなった。奴隷みたいに、目の前の仕事を、怒られないようにこなすだけの毎日になった。

言葉だけじゃなかった。大きなミスをすると、手が飛んでくることもあった。当時の職人の世界では、それも珍しいことじゃなかったんだと思う。俺は1年目で、ミスばかり。怒られるのも、手が出るのも、半ば日常になっていた。

誤解されたくないから言っておくと、親方を恨んでいるわけじゃない。たぶん、あれが当時の業界の「ふつう」だった。和食店に限らず、職人の世界はだいたいそういう構造で回っていたんだと思う。ただこのときはまだ、俺自身が気づいていなかった。少しずつ、確実に、俺の心がすり減っていることに。

坊主頭・サングラス・ハンチング。休みは自分の居場所を探していた

和食店は曜日ごとに1人ずつ休む方式だった。常に誰か1人が欠員。俺の休みは月曜日に割り振られた。月曜の朝、と言っても、帰宅は日曜営業終わり。家に帰るのはいつも午前5時を過ぎていた。そこから俺の休みが始まる。昼過ぎまで寝て、夕方から外に出て夜の街に出ていた。完全な昼夜逆転。世間は月曜の昼間に働いている。俺の月曜は、世間と完全にズレていた。

月曜に遊びにいくような友達や彼女はいない。それに、修業中は常に坊主頭。親方からは「清潔感、身だしなみを整えろ」と言われていた。経営者や各界の著名な方が接待で使うような店の従業員なんだから、当たり前と言えば当たり前だ。だから毎週休みの日には、風呂場に新聞紙を敷いて、自分でバリカンを頭に当てていた。

その坊主頭で、なんとかおしゃれをしたかった。理由は単純。少しでもモテたかったからだ。当時、坊主頭でもサマになるモデルとして参考にしていたのが、EXILEのATSUSHI。都内の駅ビルの帽子屋でレザー風のハンチング帽を買い、夜なのにサングラスをかけた。坊主頭にサングラスにハンチング帽。それが、当時の俺なりの「モテるための装い」だった。今振り返ると、かなり笑える格好だ。でも、当時の俺は本気だった。

その格好で、当時流行っていたmixiのオフ会を探し、毎週のように行っていた。正直に言うと、mixiのオフ会はマルチやネットワークビジネスをやってる連中の巣窟だった。何度も遭遇して、せっかくの貴重な休みを、よくわからない勧誘で潰された日もあった。あのときの、人を金にしか見ていない人の「目の奥の黒さ」は、今でも忘れない。

六本木の有名ナイトクラブで一人隅に立つ坊主頭の男の後ろ姿

都内の有名なクラブにも行ってみた。何事も経験だと思った。でも、いきなりクラブで調子よく周りと仲良くできるほど、俺のコミュ力は高くない。誰にも声をかけられず、隅っこでただ突っ立っているだけ。ナンパなんて夢のまた夢だった。童貞自体は大学時代に卒業していた。でも、本気で好きになった相手じゃなかった。中身が伴っていない経験を1〜2回積んだだけで、当時の俺には誇れるものは何もなかった。

こうして休みの日は、ただひたすら、自分の場所を探していた。そして、休みが明けるたびに、また長い6日間が始まった。

「お前、目が死んでるな」和食店の修業で、やる気が尽きた日

年が明けて、1月のことだ。俺よりも約1年前に入った先輩が、ある日突然「辞めて田舎に帰ります」と言って、店を辞めた。当時30歳前後の先輩で、俺より7〜8歳上の人だった。親方に集められて、重大報告として聞かされた。「◯◯君が、リタイアすることになった」と。同時に、こう言われた。「お前ももうそろそろ1年経つから、まかない担当を引き継げ」

俺は、なんとなく嬉しかった。やっと一歩階段を上がれる。そう思った。でも、その喜びは3日も持たなかった。まかない5〜6人前を、30分以内に、狭い調理場で作る。先輩が仕込みで調理場を占有している横で、俺は限られたスペースで動かなければいけない。まず時間に間に合わない。次に味が決まらない。食材を無駄にする。「こんなもの食えるか」と先輩に言われる日が続いた。

大学時代、俺は居酒屋でバイトをしていて、一人暮らしで料理もしていた。だから「料理ができる方の人間」だと、勝手に思い込んでいた。でも、和食店という小さな世界の中では、通用しなかった。結局「お前にはまだ早い」と判断されて、まかない担当は同い年の先輩に変わった。俺のプライドは、ぺしゃんこになった。

家で練習しようと思ったけど、1人前と5〜6人前は別物だ。30分以内、狭い調理場の制約も家では再現できない。料理が、いつの間にか「怒られる原因」に変わっていた。朝、職場に向かう足が、少しずつ重くなっていった。

仕事のやる気が、目に見えて消えていた頃のことだ。慣れた作業だけをこなして、新しいことには手を出さない。表情も、声のトーンも、たぶん変わっていた。仕込み中に、先輩がふとそんな俺を見て言った。

「お前、なんていうか、目が死んでるな」

営業終わり、厨房裏の階段で一人うなだれて一服する坊主頭の男の後ろ姿

呆れたように、ため息混じりに、そう言われた。「いえ、そんなことないですよ」と答えた。その夜、俺の中の何かが、静かに壊れていく音がした。

2012年2月、布団から出られなくなった日

あの日の前日のことを、今でも鮮明に覚えている。「ここには戻りたくない」――その感情だけが、頭の中で大きくなっていた。営業終わりに、親方と一緒に店を出て、いつものように歩いて帰る。1つ先の交差点でお互いの帰り道が分かれるから、そこで「お疲れ様でした」と別れる。普段通りのやり取りだった。

親方の姿が見えなくなったタイミングを見計らって、俺はこっそり店に戻った。正直に言うと、俺は普段から、親方や先輩が帰ったあとの店にこっそり戻って練習していた。大根の桂剥きとか、刃物の研ぎ方とか、営業時間中には誰も教えてくれないことを、誰も見ていない深夜の店で、一人で繰り返していた。「いつか追いつきたい」とは思っていた。少なくとも、当時はまだ、その気持ちが残っていた。

でも、もう俺の心にその気持ちは残っていなかった。俺はただ、自分の包丁を持ち帰りたかった。店に置いていた荷物を整理している途中、別の店に応援で行っていた3番手の先輩が戻ってきた。「お疲れ様です」と、俺が先に声をかけた。「まだいたの?何やってんの、帰らないの?」「あ、もう帰ります。ちょっと忘れ物しちゃったんで」「最後よろしいですか」と、鍵閉めを頼んで、逃げるように店を出た。それが、俺の最後の出勤になった。

家に帰る途中、いつものようにコンビニに寄り道して菓子を買った。家に戻って、風呂に入った。「明日どうしようかな、もう疲れたな、とりあえず朝起きてから考えよう」と、ぼんやり思いながら寝た。

翌朝、11時半前に目が覚めた。もう、出勤しなければいけない時間だった。でも、体が動かなかった。身体がベッドから離れない。「行こう」という気持ちが、自分の中のどこを探しても、もう残っていなかった。そして、うとうとして、二度寝した。次に目が覚めたのは、午後2時か3時頃だった。マナーモードにしていた携帯に、ものすごい量の着信履歴が残っていた。先輩たちからの電話だ。俺は、パニックになって、また布団に潜って寝た。

カーテンを閉め切った安アパートの部屋とベッド

窓ドンドン事件と、湘南への逃避行

15時頃、玄関と窓の方から音がした。ガチャガチャ。ドンドン。先輩たちが、安否確認で家まで来たんだと思う。鍵がかかっていて入れないらしい。窓のカーテンを完全に閉めていたから、家の中の様子は見えないはずだった。俺は、布団に潜って居留守を決め込んだ。

正直に言うと、あの瞬間、「もし窓を破って入ってきたら、包丁を突きつけて変なことをしてしまうかもしれない」と一瞬考えた。それくらい、心が追い詰められていた。10分くらい経って、先輩たちは諦めて帰った気配がした。そのあと、母からメールが来た。「親方が心配して連絡してくれた。大家さんに頼んでアパートを見てもらうね」というメールだった。

俺は「もうここにはいられない」と悟った。急いで財布とパソコンをリュックに詰めると、パジャマの上から上着を着て家を飛び出た。外は、人気のない冬の昼下がりの空気だった。行く当てなんてなかった。ただ、「海が見たい」という気持ちだけが、ぼんやりとあった。

最寄駅まで歩きながら、なんとなく湘南の海のことを思い出した。昔みたテレビ番組でふと思い出したのかもしれない。特に理由はないけど、「湘南、なんかいいな」程度の、それくらいの感覚だった。反対方向の隣駅まで歩いて、電車に乗った。そして神奈川県にある藤沢駅に着いた。マンガ喫茶で格安ホテルを検索して、飛び込みでチェックインした。ベッドで横になった瞬間、初めて、爆発するように涙が出た。夕食はコンビニのおにぎりとカップラーメン。風呂に入って、寝た。

携帯の電源は切ったまま、2〜3日、湘南で過ごした。レンタル自転車で海まで走って、海岸沿いのベンチに座って、ただぼーっと海を眺める。それだけを、毎日繰り返した。冬の平日で、誰もいなかった。金もない。職もない。彼女もいない。頼れる人もいない。23歳の坊主頭。「人生の底辺って、こういうことを言うんだな」と、波の音を聞きながら、初めて理解した。

冬の曇り空の湘南の砂浜と誰もいないベンチ

そして、毎日その海を眺めているうちに、俺はぼんやりと決めた。「もう一度、やりなおそう」と。第二の人生がどうなるかなんて、わからなかった。それでも思った。みんなにとっては当たり前で、底辺の俺には眩しく見える――そんな、ふつうの幸せを、いつか手にしたい、と。

叫んだわけじゃない。ただ静かに、そう決めただけだった。

「俺の価値は、飲食業でしか通用しない」

湘南で2〜3日過ごしたあと、そのまま家に帰る気にもなれず、ふらふらと横浜に流れ着いた。安いカプセルホテルにチェックインして、銭湯に入り、ようやく覚悟を決めて、母親に電話をした。

「心配かけた。でもごめん、もう無理だ。辛い。和食店を辞めたい」――泣きながら、和食店に勤めて初めて弱音を吐いた。母は怒らなかった。「生きててくれてよかった」それだけ言って、電話の先で泣いているのがわかった。社会人にもなってこんな形で親に迷惑をかけている自分が情けなかったが、ようやく気持ちに整理がついた俺は、一旦都内のアパートに帰ることにした。

そして俺が失踪して1週間ほど経った頃、店のオーナーから突然連絡が来た。LINEで「今日空いてる?飲みに行こうよ」とだけ書かれていた。オーナーは、普段、店に顔を出すたびに俺たちに優しくしてくれた人だった。和食店以外にも、飲食系の店をいくつか並行で展開している人だった。

会いに行ったその日、オーナーは紙袋に自己啓発本を5〜6冊入れて差し入れしてくれた。カーネギーの『人を動かす』とか、『7つの習慣』とか。普段から本をくれるような間柄じゃなかったから、よっぽど俺の状態を心配していたんだと思う。

その後、都内の大衆居酒屋に連れていかれ、ビールやチューハイを大量に飲んで、俺は爆発した。「親方が、先輩が怖いんです。毎日叱られて、殴られて。心がボロボロです。もうついていけないです。やめさせてください」泣きながら、本音を吐き出した。オーナーは黙って聞いていた。そして後日、メールが来た。「3番手の先輩が、料理人派遣で行っている系列の店に入れてやる。もう一回やり直そう」

その誘いを、俺は断った。理由は2つある。1つ目は、もう飲食業を続ける気力が、自分の中に1ミリも残っていなかったこと。2つ目は、これは時間が経ってから気付いたことだけど、もっと重い理由だった。

「オーナーが俺を回せる先は、飲食業しかなかった」のだ。

つまり、俺には飲食業のスキル(しかも1年弱の中途半端なやつ)しか商品価値がなかった。パソコンスキルもない。ルックスも平凡。コミュ力も営業力も根性もない。最後は無断欠勤するようなやつ。そんな俺を他事業に回すほどの価値を、オーナーは感じていなかった。俺の価値は、飲食業でしか通用しなかった。これが、本物の現実というやつだ。

悲しかった。悔しかった。何のスキルもない俺は、この現実を受け止めることしかできなかった。ただ、俺の中で初めて、「やりたい仕事」じゃなくて「やりたくない仕事の軸」ができた気がする。

霧の夜道を歩く人物のシルエット
  • 立ちっぱなしの仕事はやりたくない。デスクワークの仕事がしたい。
  • 昼間働いて、夜は仲間と飲みに行ける仕事がしたい。

たったこれだけ。でも、こんな簡単な自分の答えにさえ当時の俺には気づけていなかった。オーナーへの最後のメールに、こう書いた。「この前はありがとうございました。誘いはありがたいですが、もう戻る気はありません」返事は短かった。「わかったよ。頑張ってな」それきり、オーナーとは会っていない。

「自信がついたら、また会いにきな」親方への最後の鍵返し

店を辞めることは、オーナー経由で親方に伝わっていた。でも、店の鍵を返していなかった。湘南から戻って数週間後、深夜2時頃に、俺は親方に電話をした。「鍵を返しに行っていいですか」親方は、来てもいいと言ってくれた。

灯りのともる夜の集合住宅

親方の家のマンションの玄関口で、ほんの数分の対面だった。「ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけて、すみませんでした」俺は深く頭を下げた。親方は、そんな俺に笑顔で接してくれた。そして、俺の肩をポンと1回叩いた。圧は強めだった。たぶん、本当は殴りたい気持ちもあったんだと思う。でも、それを大人の計らいで、ポンの1回に変えてくれたんじゃないかと思っている。

別れ際、親方はこう言った。

「君がもし自分に自信がついて、もう一回俺の前に顔を出せる時になったら、また会いにきな」

俺は、何も言えなかった。ただ、その言葉だけが、今でも頭の中に残っている。15年以上経った、今でもだ。

無駄打ちの点が、線になる日まで

あの1年は、本当にしんどかった。今思い返しても、人生で一番つらい時期だったと思う。実際は1年にも満たない短い時間だったはずだ。なのに、15年以上経った今でも、当時の景色や匂いを鮮明に思い出せる。脳に刻まれている、という感覚がある。

和食店を辞めたあと、俺はしばらくニートだった。ぼーっと現実逃避をしていた。東京のアパートにしばらく住み続けながら、漫画喫茶に行ったり、家でYouTubeを見たりしていた。東京は、遊び場が多そうに見えて、一人だと限界があった。飲食店も、気の合う仲間と一緒なら楽しいけど、一人で行くと、まったく違う時間になる。大切な人がいない人生は、寂しい。

あの和食店の1年で得たもの。それは、料理スキルでも、人脈でもなかった。「なんとなく生きる」でもない。「やりたいことを見つける」でもない。絶望と、どん底を一度味わったから、ようやく聞こえてきた自分の心の本当の声――「こういう生き方は、もう絶対にしたくない」。その輪郭がはっきりした、初めての瞬間だった。これが、俺が和食店の1年で本当に得たものだ。

俺は、要領のいい人間じゃない。点と点がすぐに線につながるタイプじゃなくて、無駄打ちが本当に多かった。和食店の1年も、情報商材で100万円以上溶かしたことも、公務員試験に3年落ちたことも、全部「無駄打ちの点」の連続だ。でも、その点が、何年も経って、ようやく線につながった。そしてその線は、俺の中で太く、絡みついた糸のような形になって、自分の中に確かな軸をつくった。

だからこそ、今、多少のことがあっても、逃げずに目の前の仕事を続けていられる気がする。残業の多い月もある。理不尽もある。でも、あの和食店での日々と比べたら、そんなことは大したことないと思える。

俺は今、幸せだ。妻がいて、娘がいる。新卒の同期たちと公務員のスタートを切り、気がつけば同期の中で責任のある役回りを任されるようにもなった。そんな、今が幸せだからこそ、こうやって過去のしんどい話を「いい経験だった」と語れる。たぶん、過去のしんどさを語れるかどうかは、今が幸せかどうかにかかっている。灰色の20代を過ごした俺には、絶対にできなかったことだ。

夕暮れの中、後ろ姿で並ぶ家族(父・母・娘)

そんな俺にはまだ実現できていないことがある。それは、親方が最後に俺に言った「自信がついたら、また会いにきな」の実現だ。いつか、自分に対する後ろめたさが完全に消えた日。俺は胸を張って、家族を連れて親方の店の暖簾をくぐる。

あの日、逃げ出した俺と、胸を張って親方の店の暖簾をくぐる俺との間に、線を引きたい。それが、まだ俺の中で残っている、今もつながっていない「無駄打ちの点」だ。15年以上かけて、俺はようやく、その「点」をつなげられる場所まで来た。その日まで、もう逃げない。

もし、あの頃の俺にひとつだけ伝えられるなら

もし、あの頃の俺にひとつだけ言葉を渡せるなら、こう言う。「逃げてもいい。逃げたあとに、もう一度立ち上がる方法は、ちゃんとある」

当時の俺は、「修業を逃げるなんて人生終わり」と本気で思っていた。でも、逃げた先で、俺はちゃんと生き直せた。今のところ、地方公務員として穏やかに暮らせている。妻と娘もいる。完璧な人生じゃないけど、23歳の坊主頭の俺には信じられないくらい、ふつうの幸せが手の中にある。

もし今、当時の俺と同じように「逃げたい、でも逃げたら終わりだと思っている」人がこの記事を読んでくれているなら、伝えたいのはひとつだけ。逃げた先にも、ちゃんと人生は続いている。そして、逃げたあの経験すら、何年か経てば、今の自分をつくった大事な一部になっていく。

俺がそれを実感できたのは、和食店を辞めて10年以上経ってからだった。リベラルアーツ大学の両学長派の考え方に出会って、お金・健康・人間関係を整える生き方を知って、ようやく「あの1年も含めて、今の俺がある」と腹落ちした。

もし今、当時の俺と同じ場所に立っているあなたへ。いったん、深呼吸してみてほしい。

逃げてもいい。逃げた先にも、人生はちゃんと続いている。

ただ、「あなたも必ず幸せになれる」とは、俺は言わない。「必ず」を軽々しく口にする人間に、俺は昔、何度も騙されてきたからだ。だから、言わない。

言えるのは、ひとつだけ。

頭が「逃げるな」と言っても、体が動かなくなる夜がある。そういう夜は、頭じゃなくて、体の声を信じていい。

逃げた先で、ちゃんと生き直した人間が、ここにひとりいる。それだけは、本当だ。

今日はまだ、顔を上げられなくてもいい。

あなたが顔を上げられる日まで、俺はこっち側で、待ってる。

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